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織物のまち八王子
桑の都 八王子織物のはじまり
八王子は「桑の都」と呼ばれ、古くから養蚕と織物が盛んでした。「八王子織物」の起源は、滝山城下の市で取り引きされたころだといわれています。江戸時代には八王子十五宿が開設され、毎月4と8のつく日に市が開かれ、繭や生糸、織物などが集まるようになりました。
明治時代になると、八王子織物全体の技術向上と品質改善に取り組むため、八王子織物染色講習所を開設し、染色の専門家に指導してもらうようになります。このほか、八王子織物同業組合を結成するなど、産地全体で近代化に取り組み、徐々に成果をあげていきました。
激動と躍進の時代
大正時代になると電気で動かす大型の力織機が普及し、八王子の織物は次第に工場での生産へと移っていきます。そのため、人口も増え、大正6年(1917)は東京ではじめての「市」となりました。
この時代は服装が着物から洋服と変わっていくころで、八王子織物は新たな分野を開拓することとなります。大正末には初めてネクタイが作られ、今でも八王子は国内有数のネクタイの産地となっています。
苦難を乗り越えて
第二次世界大戦下で八王子織物業は苦しい時代を迎えます。輸出ができなくなり、多くの工場がやめてしまい、織機はくず鉄に変えられてしまいました。残った工場も、昭和20年8月2日の八王子空襲で焼けてしまいました。
終戦時、残った工場はわずかでしたが、政府からお金を借りるなどし、少しずつ立ち直っていきます。戦後は衣料が足りないため、織物はよく売れました。ガチャンと機を織れば万という金がもうかるという意味で「ガチャ万」といわれるほど景気がよくなりました。昭和55年に八王子織物の歴史と技術の結晶といえる「多摩織」が通産省から伝統工芸品として指定を受けました。
養蚕と織物で発展してきた八王子。八王子駅前には「織物の八王子」とかかれた織物タワーがそびえ立っていました。平成7年にこのタワーはなくなりますが、そのかわりに今では、駅を出ると八の字に巻いた絹をイメージしたモニュメント「絹の舞」が迎えてくれています。