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八王子市の名前の由来
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八王子市の名前の由来
みなさんは、自分の住んでいる八王子市が、なぜ「八王子」という地名になったのか、きちんと説明できますか。「八王子」に限らず地名の由来や起源について、明確に説明するのは意外と難しいものです。
そこで、すこし長くなりますが「八王子」という地名のいわれや成り立ちについて紹介してみたいと思います。
「八王子」という地名は、全国に分布しています。それは、牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子(八王子)をまつる信仰の広がりの中で、八王子神社や八王子権現社(ごんげんしゃ)が建立され、地域の信仰を集め始めるとともに、地名として定着していったからです。もちろん、私たちの八王子の起源も、ここにあります。今、八王子城にある八王子神社がそれです。
牛頭天王をまつる信仰は、もともとインドから中国を経て伝わってきたものですが、わが国では、疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として、古代より定着したようです。中世には、その8人の子を眷属神(けんぞくしん)(主神に従属する神々)とし、あらゆる人間の吉凶を司る方位の神として全国に広がっていったといいます。
さて、わが八王子神社の由緒については、宗関寺(そうかんじ)(元八王子町)に伝わる古記録(こきろく)に記されています。それによると、平安時代、延喜(えんぎ)13年(913年)の秋、京都から訪れた妙行(みょうこう)という学僧が、深沢山(ふかざわやま)(後の八王子城)山頂の岩屋で修行をはじめました。
夜がふけると、にわかに強風が吹き、雷鳴がひびき、いろいろな妖怪(ようかい)が群れを成して現れ始めました。妖怪たちは、妙行の回りにおしよせてくると、たちまち姿を消してしまいます。
その後、月明かりの下でお経を唱えていると、今度は岩屋の上から大蛇が降りてきて、妙行の回りにとぐろを巻いて眠ってしまいました。妙行が、手にした如意棒(にょいぼう)で頭を打ち「目を覚ませ」と言うと、大蛇はたちまち消えてしまったのです。
夜が明けると、8人の童子(どうじ)を伴った神が現れ、「私に属する神々や弟子たちは、あなたの徳に感服しました。願わくば、この地にとどまってください。私は、あなたの神護(じんご)の法にしたがいます」と告げたのです。妙行が名前を問うと「私は牛頭天王(ごずてんのう)で伴っているのは八王子です」と答え、姿を消してしまいました。
妙行は、さらに修行を積み、延喜(えんぎ)16年(916年)深沢山(ふかざわやま)を天王峰(てんのうみね)とし、周囲の8つの峰を八王峰(はちおうみね)とし、それぞれに祭祠(さいし)を建て、牛頭天王と八王子をまつる八王子信仰が始まったのです。翌年、深沢山のふもとに一寺が建立され、しだいに伽藍(がらん)も整備されていきました。
天慶(てんぎょう)2年(939年)、妙行の功績が都の朱雀(すざく)天皇の耳に届き、「華厳菩薩(けごんぼさつ)」の称号が贈られるとともに、寺名も「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改められたのです。
これが、八王子神社の由緒とその神宮寺(じんぐうじ)となった牛頭山神護寺(後の宗関寺)の縁起として伝えられた「華厳菩薩伝説」のあらましです。伝説の真偽は別としても、八王子神社を中心とした地域が、中世には「八王子」と呼ばれるようになったことは間違いありません。
八王子神社を中心とした地域が、いつごろから「八王子」と呼ばれ始めたかは、はっきりしていません。記録として残されているものは、永禄(えいろく)12年(1569年)5月8日付け北条氏康(うじやす)の書状が今のところ最初のものです。
北条氏康は、相模国(さがみのくに)小田原城(おだわらじょう)(神奈川県小田原市)に本拠を置いた北条氏3代目の当主で、滝山城主北条氏照(うじてる)の父親ですが、この書状の中で「八王子方面」の意味で「八王子筋」という表現を使っているのです。
この永禄12年、北条氏は甲斐(かい)(山梨県)の武田信玄(しんげん)と戦い始めていました。北条氏照は、家臣を率いて出陣していたために、甲斐との国境に位置する滝山領は、防御が手薄になっていたのです。
そこで、氏康は江戸城を守っていた武将の1人、富永孫四郎(とみながまごしろう)に一刻も早く滝山城に移り、由井(ゆい)の八日市(ようかいち)(大楽寺町)へ着陣するように書状で命じたのです。それは「八王子筋」へ武田軍が攻めこんでくるという情報を入手したけれど、いまこの地域には味方の軍勢がまったくいないので、たいへん心配したからという理由でした。
この書状の内容から、16世紀の半ばには、八王子神社とその神宮寺である牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)から由井郷にいたる地域(元八王子町)は「八王子」と呼ばれていたことがわかります。
その後、天正(てんしょう)10年(1582年)をすぎたころ、北条氏照は、この八王子神社が建立されている深沢山(ふかざわやま)に新しい城を築き始めます。そして、八王子権現をこの新しい城の守護神としたのです。そのため、この城は「八王子城」と呼ばれるようになり、天正14年(1586年)ころには滝山城から移転したといわれています。
氏照が八王子城を築き、移転した背景には、いろいろな事情が考えられていますが、もっとも大きい理由は、当時天下統一のために精力的な戦いを進めていた豊臣(とよとみ)秀吉に備えるためだったようです。
氏照は、北条氏を代表する戦上手(いくさじょうず)であり、情報通でもあったので、秀吉の戦い方は十分に研究していたはずです。
秀吉と戦うことになれば、最終的には本城である小田原城でろう城戦になると考えて、各地におかれた支城は、できるだけ少ない人数で守る必要があると考えていました。そこで防御範囲の広い滝山城ではなく、山城の八王子城を防御拠点として築いたのです。
しかし、こうして戦いに備えた八王子城でしたが、天正18年(1590年)6月23日、豊臣軍の圧倒的攻勢のもとわずか1日で落城してしまいます。
落城後、徳川家康の代官大久保長安(おおくぼながやす)によって、現在の八王子市街の地に新しい横山十五宿(よこやまじゅうごしゅく)(八王子宿)が建造され、発展していくにつれて、八王子の地域は「元八王子村」と呼ばれるようになり、地元では神護寺に由来する「じごじ」という通称地名も受け継がれてきました。「八王子」の地名は、華厳菩薩(けごんぼさつ)伝説と八王子信仰の広がり、そして八王子城の築城という歴史的背景のもとに成立し、定着した地名だったのです。
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