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八王子織物の歴史

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桑の都 八王子織物のはじまり

江戸時代まで

「桑都(そうと)」とは八王子を指す美称です。古くから養蚕(ようさん)や織物が盛んであったことを表しています。では「八王子織物」とはいつ頃からあったのでしょうか。
八王子は関東山地と武蔵野台地の境に位置し、山がちで耕作地が少なかったため、養蚕や機(はた)織りは、古くから農家の大切な仕事でした。八王子織物の起源は、滝山城下の市(いち)で取引きされたころだといわれています。

八王子織物

17世紀はじめに成立した「毛吹草」(けふきぐさ)には、武蔵の特産として「瀧山横山紬嶋」(たきやまよこやまのつむぎじま)の名がみえます。江戸時代には八王子十五宿が開設され、毎月4と8の日に市(いち)が開かれて、周辺の村々から繭(まゆ)や生糸、織物などが集まるようになりました。
「八王子織物」とは、もとは周辺の村で織られ、八王子の市(いち)に集められた織物のことでした。八王子は、桐生(きりゅう)や足利(あしかが)などの織物技術の先進地や、江戸という大消費地に近く、織物業が発展するにために、地理的にも有利な条件がそろっていました。

市の様子

この地方では、真綿から紡(つむ)いだ糸を染めて、縞(しま)模様に織ったものが多く、そのため当地の織物は縞物、織物市は縞市などと呼ばれました。絹織物は染色方法によって先染(さきぞめ)織物と後染(あとぞめ)織物に分けられますが、八王子では前者を中心とし、特に男物や実用的な着物の産地でした。
「八王子織物史」などによれば、江戸時代末ごろまでには、養蚕・製糸・織物が、地域的に分業化される傾向が現れました。それを取りまとめる縞買(しまかい)と呼ばれる仲買商らが成長してきたことを表わしています。縞買たちは仲間を結成し、織物の生産者に対して優位性を保ちながら、中心となって市(いち)の発展に尽力し、明治以降も織物業の近代化を支えていくことになります。

明治時代

明治新政府は、富国強兵を基本方針とし、殖産興業政策を強力に進めました。繭や生糸・織物などは輸出品として特に重要視されました。この政策の一環として、全国で官設の博覧会や共進会が開催され、産業・技術の近代化、品質の向上に大きな効果と影響を与えました。

仲買商や機業家

しかし、明治10年代の八王子では、輸入された粗悪な化学染料をむやみに用いたため、品質が低下し、「八王子織物一切取扱不申(もうさず)」と市場から締め出され、明治18年の五品(ごしな)共進会でも成績は全く不振でした。
これに奮起した仲買商や機業家(製造業者)らが中心となって、染色をはじめとする八王子織物全体の技術向上と品質改善に取り組みました。まず、明治19年に仲買商らが八王子織物組合を結成しました。翌年八王子織物染色講習所を開設し、ここに山岡次郎(やまおかじろう)や中村喜一郎(なかむらきいちろう)といった、当時の日本の染色の第一人者を招へいしたのです。明治32年には製造業者を含めた八王子織物同業組合が設立され、同年、八王子を会場として一府九県連合共進会が開催されました。八王子染色講習所は、明治28年に私立八王子織染(しょくせん)学校に、明治36年には東京府に移管され、東京府立織染学校となりました(のちの八王子工業高等学校。平成19年に第二商業高等学校と発展的に統合し八王子桑志高等学校が開校)。こうして八王子では産地全体で近代化に取り組み、徐々に成果を上げていったのです。

激動と躍進の時代

技術革新と生産構造の変化

織り機

織物組合を中心に近代化が進められていた明治時代後期でも、八王子地方ではまだ手織り機が使われていました。江戸時代までは地機(じばた)が主に使われていましたが、江戸時代も終わりころになると高機(たかはた)が徐々に普及してきました。高機は、織り手が腰板(こしいた)に腰掛けて織るため、地機よりも格段に作業能率がよく、より複雑な織物を織ることも出来ました。明治時代半ばには、引き抒(ひきび)やドビー、ジャガードなどのような外国の技術が入り、新しい形の手織り機も出現しましたが、大正時代以降、力織機(りきしょっき)が普及してきました。
大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発し、沈滞していた経済界は戦時好景気にわきかえりました。すでに力織機は明治30年代末頃八王子にも入っていましたが、この好景気に後押しされ、また国産力織機の出現も手伝って、急速に電力への転換が進んだのです。このことは、八王子織物にとって非常に大きな意味を持っていました。

織物展示品

八王子では明治30年代半ばまで、家内工業的経営が主流でした。つまり、まだ農業の副業的な織物生産の延長上にあり、市街地よりもむしろ周辺の山沿いの村で盛んに生産されていました。力織機は、この産業構造を大きく変化させたのです。機業家(機屋。織物製造者のこと)は動力を求めて市街地へと移り住み、労働力は町の大きな機屋へと流れていきました。また、撚糸(ねんし)業・整理業・染色業のように、織物工程の分業化が進み、昭和期にかけてさらに細分化されていきました。ここにおいて八王子の織物業は、工場制工業の段階へ至り、八王子の町は単なる集荷地ではなく織物生産の中心地となり、名実ともに八王子織物として、その爛熟(らんじゅく)期を迎えようとしていました。
このころ江戸時代以来の織物市が、大正5年(1916年)には市場取引から店舗取引に変わり、市日(いちび)も4・8のつく日から火曜日・金曜日になるなど、織物取引にも大きな変化がありました。

多様化の時代へ

婦人物着尺

大正時代になると、男性の服装は着物から洋服となり、女性の着物は縞物(しまもの)から模様物へと変わってきていました。八王子は大衆向けの着尺(きじゃく)(着物用の織物)の、特に男物中心の産地でしたので、このことは大きな問題でした。八王子の機業家たちは新分野開拓の必要に迫られて、まず婦人物着尺に活路を見出します。大正13年(1924年)には八王子織物柄の会が設立されるなど、新製品の開発や販売圏拡張に努めました。また大正末には初めてネクタイが作られました。現在も八王子は国内有数のネクタイ産地です。
大正末から昭和初め頃、多摩結城(たまゆうき)と名付けられた紋織(もんおり)の織物が完成しました。大衆向け織物の産地であるため、流行などの影響を受けやすかった八王子において、もっとも長く織り続けられたのがこの多摩結城です。八王子の技術の集大成と評価も高く、現在も伝統工芸品として織られています。昭和の初めには海外市場を開拓すべく、輸出織物の生産が奨励されました。このように、急激な変化の中で従来以上の研究開発が必要とされ、専門機関の設立が急務とされました。昭和3年(1928年)、明神町に東京府立染織試験場(現・東京都立産業技術研究所八王子庁舎)が設立されました。こうして八王子は時代の波を乗り越えて、成長を続けていったのです。

苦難を乗り越えて

第二次大戦下の動向

戦時中イラスト

昭和12年日中戦争が始まり、日本国内は徐々に統制経済体制に切り替えられていきました。これまで順調に成長していた八王子織物業も長い苦難の時代を迎えることになります。
昭和15年1月に生糸の配給統制規制が交付され、原料糸の割当が始まりました。また昭和15年7月7日、俗に七・七禁令と呼ばれる「奢侈品等(しゃしひんとう)製造販売制限規則」が施行され、当時流行していた金銀糸などを使う銘仙(めいせん)などの織物は取締りの対象となり、八王子にも大きな影響がありました。同年織物同業組合が解体し、織物製造業者の企業合同が始まりました。

焼け野原

昭和16年12月の太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)により輸出も途絶し、統制はさらに強化されて指定生産が中心になっていきました。昭和18年には最小限度の工場に織機を残し、残りをくず鉄にして供出することになります。多くの工場は軍需工場などに転換するか、廃棄せざるをえませんでした。そして市街地の90パーセントを焦土と化した昭和20年8月2日の八王子空襲によって最後に残った工場も壊滅的打撃を受けてしまいしました。終戦時残った工場は、昭和16年のわずか約20パーセントにすぎなかったということです。

織物工場

事実上の操業停止となっていた八王子織物業は、復興金融公庫による融資を得てようやく立ち直りました。やがて繊維関係の統制もすべて撤廃され、加えて戦後の衣料不足から織物の需要が高まり、昭和20年代半ばには、ガチャンと機(はた)を織れば万という金がもうかるという意味で「ガチャ万」と評されるほどの好況期を迎えたのです。

ウール

従来からの銘仙類や御召(おめし)などのほか、多くの新製品が生まれ、夏物上布(じょうふ)や男物着尺(着物地)、そしてネクタイを中心に傘地・マフラーなど雑貨織物の生産も盛んになりました。また昭和30年頃生まれた紋ウールは、素材にウール(毛)を用いつつ先染の伝統を生かした紋織りの織物で、40年代にかけて売れ続け、戦後八王子織物の最大のヒットとなりました。

織物の八王子

昭和55年に八王子の「多摩織」が通産省から伝統工芸品として指定を受けます。多摩織とは、多摩結城(ゆうき)・紬織(つむぎおり)・風通織(ふうつうおり)・変わり綴(つづれ)・捩(もじ)り織の5種類の織物の総称で、八王子織物の歴史と技術の結晶と言えます。伝統を守りつつ、新しい試みを続けることで、私たちの町八王子の伝統的な産業である織物業を将来へと継承していくことが出来るでしょう。

主な参考文献

「八王子市史」上巻(昭和38年)八王子市
正田健一郎編「八王子織物史」上巻(昭和40年)八王子織物工業組合
「八王子織物工業組合百年のあゆみ」(平成11年)八王子織物工業組合

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