明治時代
<このころの出来事:クリックするとその内容の所に飛ぶよ>
・廃藩置県
・小学所が作られたよ
・まちの様子
・地租改正
・明治天皇ご巡幸
・自由民権運動
・甲武鉄道八王子・新宿間が開通
・八王子町の誕生と周辺の村
・八王子織物染色講習所
・八王子が東京府へ
・八王子の大火事
・八王子織物同業組合
・萩原橋と萩原彦七
・東京府立第四高等女学校の開校と横川楳子
・初めての電話

旧石器・縄文時代・
弥生時代・古墳時代

奈良時代・平安時代・
鎌倉時代

戦国時代と
八王子城

江戸時代と千人同心

明治時代

大正時代

昭和時代

八王子歴史年表
  明治時代
メルト さあ明治の時代についたよ。明治の前は慶応だよね。そうそう、この年に江戸という名前もなくなって東京になったよ。
花子さん このころも、八王子の宿では織物がよく売られていたはずよね。あと、八王子の宿では、八王子市場といって市場があったのよね。たしか4がつく日(4・14・24日)には横山宿で、8がつく日(8・18・28日)には八日市宿で市が立ったと本には書いてあったけど。
太郎君 ほかにはどんなものを売ってたの?
メルト うん。さっきの織物をはじめ、米、炭、塩、麻などいろんなものが売られていたんだ。変わったものでは、柏餅に使うカシワの葉の市もあったという記録が残っているよ。あと、生糸の外国への輸出がどんどん盛んになったんだ。
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  廃藩置県
花子さん さっき江戸から東京になったって言ってたけど…。
メルト あっそうだね。新政府は、明治2年6月、東京を日本の新首都と宣言した。ついで明治4年7月、廃藩置県と言って日本国内にたくさんあった「藩」をやめたんだ。土地や人々の支配権も大名などから取り上げて、士農工商という身分制度をやめたんだ。華・士族、平民という呼び方に変えたんだ。これにはみんな喜んだよ。お殿様もいなくなったし、厳しい身分制度もなくなると思ったからね。だけど、これはうわべだけ、結局、税金も同じようにとられたんだ。
太郎君 八王子はどうなったの?
メルト 八王子はというと、江川太郎左衛門役所が取り仕切っていた八王子宿(武州多摩郡八王子宿)は神奈川県になったんだ。
花子さん 八王子は神奈川県か〜。
<そのころの日本は>
苗字の使用許可
明治3年、百姓や町人には幕府の許可がなければ許されていなかった苗字の使用が許されるようになったんだ。だけど、結構忘れる人が多くて、明治8年には法律で強制的に全員に苗字をつけさせたんだ。
また、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と福沢諭吉が書いた『学問ノススメ』が飛ぶように売れたんだ(明治5年)。これは、22万部発売され、数年間大ベストセラーを続けたよ。
そのほか「文明開化とざんぎり頭」なんていって今までの結った髪をやめてゆく人が増えてきたんだ。
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  小学校が作られたよ
花子さん このころの学校は?
メルト このころはまだ寺子屋だったんだ。そして、明治5年の太政官布告(だじょうかんふこく。華族、農家、商人、女の人もみんな勉強しなさいというもの)という命令があったんだ。だけど、女の人は実際にはなかなか学校には行けなかった。そして、明治6年には、それまでの寺子屋はなくなり、小学所が作られたよ。
花子さん 小学所ってよんだんだ。
太郎君 どこの学校が最初にできたの?
メルト 一番初めに横山学校、これは今の第一小のことだね。あと、八木学校、これは第二小などが授業を開始したよ。そのころはお寺などを使っていたんだ。
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  まちの様子
太郎君 太郎:八王子の町中はどんなだったのかな?
メルト 宇宙人:じゃあちょっと見てみよう!これは甲州街道だね。人力車や馬車が活躍しているよ。よく見えないけどこのころの甲州街道には、とおりに沿ってたくさん井戸があったんだ。また、どぶも通りの真中にあったんだって。
花子さん 花子:へえ〜。今は下水道の時代だものね。
メルト 宇宙人:花子さんは飛脚を知っている?
花子さん 手紙とかを運ぶ人でしょう。
メルト そうそう、その飛脚はこのころ廃止されたんだ。そして、郵便制度になった。明治4年ころに八王子にも郵便局ができたんだよ。郵便ポストは始めのころ「たれべん」と読み間違えられてオシッコされてしまうこともあったらしいよ。
太郎君 うわ〜汚いな!
花子さん ほんと!今じゃ考えられないわ。
メルト でも、生まれて初めて、見たもの聞いたものはやっぱり間違えても無理はないよね。そのほか、電話はエレキって言われて、みんな電線のしたを通ると感電するから注意するようにといわれたんだよ。これも、はじめてだからしょうがないよね。
<そのころ日本は>
欧米に比べて後進国(産業などが遅れていること)だったんだ。農・糸業、工業が中心だった。だからこうしたものを外国へ輸出して、貿易を振興させようとしたよ。富国強兵というスローガンを掲げたんだ。富国強兵というのは国を金持ちにして、強い軍隊を作ろうという意味かな。
1. 海外市場への邦品宣伝及び海外市場調査
2. 海外ためし売り
3. 民間業者の保護奨励
4. 輸入品防圧のための内国産業の保護育成
花子さん 生糸の輸出も盛んだったはずだけど。八王子を通って横浜から輸出されていたのよね。たしか絹の道を通ったって。
メルト 生糸は、国の方針でもあり、保護されていた重要な貿易だったんだ。遠くは高崎や長野から集められたよ。政府も生糸にすごく熱心だった。だから、農家の人たちも一生懸命、桑畑を世話した。大通りのすぐ裏は桑畑がたくさんあったらしいよ。やはり八王子は「桑都(そうと)」だったんだ。長沼や中野町で製糸工場も作られたよ。
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  地租改正
花子さん そういえば年貢はどうだったの?
メルト このころ地租改正というのがあったんだ。
太郎君 なんだか難しそうだな。
メルト 廃藩置県、これは藩をやめて神奈川県とか埼玉県という名前にするものだったよね。これと一緒に、いままで年貢といっていたのをやめたんだ。そのために維新政府が行ったのが地租改正(ちそかいせい)。これは土地に値段をつけて、その3パーセントの価格を毎年政府に支払うものなんだ。税金の始まりだね。でも、お金で払うんじゃなくて、お米で払う。お米は過去五年平均の値段を使うんだ。
花子さん 3%なんて少ないじゃない。
メルト いやいや。実際の払い主の地主は、小作人からまず3%をとる。さらに小作料も取り立てていたんだ。豊作の時はいいけど、天候は変わりやすい。今と違って化学肥料はないし、台風がきたら稲はすぐだめになってしまう。小作人は大変だったよ。
太郎君 そういえば、台風って毎年来るよね。
メルト 稲が直撃されないように祈るばかりだよね。
花子さん だから豊作を願ういろいろな行事があるのね。
メルト 獅子舞もその一つだね。
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  明治天皇ご巡幸(写真)
メルト あっそうだ、明治13年6月16日、明治天皇が三重へ行く途中、八王子を通過することになったんだ。町は大騒ぎだったらしいよ。道はきれいに掃除され、家もきれいにされた。当日は、雨が降っていたんだけど多くの人が一目天皇を見ようと訪れたんだ。お年寄りは、土下座しないですむなんてありがたい、と言ってたんだって。
  明治天皇が休憩されたことを記念した碑
▲明治天皇が休憩されたことを記念した碑
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  自由民権運動・明治13年
花子さん 自由民権運動っていうのもたしか本で読んだような。
メルト 花子さんはすごいなよく本を読んでいるね。この自由民権運動はね、徳川幕府制圧をもくろんだ、薩摩、長州、肥後の連合が、維新後、同盟を組んでいた農民を切り離してしまったことからなんだ。
太郎君 ひどいね
メルト 国づくりばっかりを優先させたから、農民や小市民たちは自分たちでたち上がった。「地主や商人に自由と権利を」とさけんだんだ。こうした自由民権運動は各地で起こったよ。
また、12年に開設された府県会(ぎかい)は、この動きを活発化させたんだ。当時の選挙権は地租15円以上の地主だけだった。一方、八王子の自由民権運動は神奈川県の議員の人などが中心だった。
  三多摩壮士・秋山文太郎の碑
▲三多摩壮士・秋山文太郎の碑
花子さん 花子:税金をたくさん払っていないと選挙できないの?
メルト 宇宙人:昔はそうだったんだ。
あと、この自由民権運動には、いろいろな人が、いろいろな利益を求めて参加していた。例えば、地主と小作人。当時、国の財政は地租だけなんだけど、国で使うお金が必要になると地租が値上げされた。地主は小作人からもらう小作料を値上げすればいいんだけど、やっぱり地租は減らして欲しい。もちろん小作人は苦しかった。だから地租の軽減は地主、小作人の両方の願いだったんだ。だから、お互いこの運動に参加した。
あとさっきの天皇の訪問は、この自由民権運動を静めさせる目的もあったんだ。あまりうまくいかなかったけどね。
太郎君 自由民権運動はどうなったの?
メルト ますます盛んになったんだ。「われに自由を」「国会を開け」みんな一生懸命叫んだ。そして、同盟をくんで自由党という党を作ったんだ。しかし、政府の命令で自由党は弾圧された。また、自由党の総理には板垣退助がなった。この板垣もおそわれた。
花子さん それでどうなったの?
メルト 大丈夫死にはしなかった。このとき板垣が言った言葉「板垣死すとも自由は死さず」は後で有名な言葉になったよ。
上川口町には、「幻境の碑」というのがあるんだ。これは、秋山国三郎という自由民権運動で有名だった人と、北村透谷という有名な文学者が親交を重ねたという記念の碑なんだ。
幻境の碑
▲上川町にある幻境の碑
太郎君 それからどうなったの
メルト 困民党事件というのがおきているね。
花子さん 怖いわね。
メルト 富国強兵政策や西南戦争で乱発された紙幣で、日本にはインフレ(物価が上がりすぎてしまうこと)が起きたんだ。明治14年から不景気にみまわれ、八王子ももちろんこの波に飲まれる。各地で中小企業は、倒産し、農民も土地を手放し出稼ぎに行った。人身売買も行われたんだよ。
太郎君 人も売られちゃうの。
花子さん そうなのよ。お店の奉公に出されたり、子守りのために引き取られたりしたのよ。
メルト そして明治17年ころから新しい形態の「困民党」がおきる。解党した自由党の党員も加わり、この困民党は過熱したんだ。地租軽減、借金の取り消し、小作料免除などのスローガンをもとに銀行や金貸し富豪などを次々に襲った。
花子さん 八王子ではどんなことがあったの?
メルト 明治17年8月。八王子のあちこちで小作人たちが集結。10月末まで騒動が続いたんだ。国道16号の近く、御殿山でもこうした困民党の集会などがあったそうだよ。こうした動きは「困民党事件」としていまでも語りつがれているんだ。
花子さん

太郎君

知らなかったな。
メルト 大丈夫。小学生じゃ知らないはずだよ。
花子さん さっき銀行って言ってたけど、どんな銀行があったの
メルト 生糸取引が盛んだった明治11年八王子にも、新しく国立の第三十六銀行ができたんだ。運転資金といって、材料を仕入れたりするためのお金を銀行から借りることができるようになった。これまでは質屋や金貸しなどから借りていたんだ。質屋だと物を預けなくてはいけないし、金貸しは金利といって借りたお金を返すときにたくさん上乗せして払わなければいけないから大変だったんだ。この銀行の登場は、産業の発展に大きく貢献した。
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  甲武鉄道・八王子―新宿間が開通
太郎君 このころ、電車はあったのかな?
メルト このころは電車ではなくて汽車だよ、蒸気機関車。写真とかで見たことはあるだろう。ます明治22年、八王子と新宿をつなぐ甲武鉄道が開通した。これは、今の中央線だよ。しかし、この鉄道、最初は汽車の予定ではなく、馬車鉄道といって、線路を引き、馬が車を引くものの予定だったんだ。信じられないよね。
当時、汽車は、火事を起こしたり街道の宿が寂れるといって、甲州街道沿いの線路の敷設は反対されたんだ。だから、中央線は甲州街道から少し離れているんだ。昔の武蔵野の林の中を走ることになったんだよ。
花子さん 昔は貧しかったはずだけど、汽車にはみんな乗れたのかしら。
メルト 開通当初は、運賃も高くて、みんなはまだ乗り合い馬車を使っていたんだって。汽車賃は30銭、時間は約2時間。馬車はその半額以下だったんだ。
太郎君 一日に何本くらいの汽車が走っていたの?
メルト 一日に4本の列車が出発、到着したよ。八王子は甲州(今の山梨県)一円を背後に控え、物資が集められ、運送業なども大繁盛。商人も栄えたんだ。また、列車が通ると、新しい話題や流行が入ってくるようになった。
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  八王子町の誕生
メルト この鉄道が開通した明治22年、八王子町も誕生したんだ。町の名前は、横山町にしようとする勢力と八王子町にしようとする勢力の間で対立もあったよ。結局は八王子町になった。このほか、周辺にはまだ合併する前の9つの村があったんだ。八王子は、こうした周辺の村とくっついて八王子市になっていったんだよ。それと、町会議員選挙も行われた。20歳になったら誰でももらえる現在の選挙権と違って、納税や年齢、居住年数など、かなりの制限があったんだ。
このときあった町を紹介するね。みんなの住んでいる町の昔だね。
八王子と周辺の村
八王子町 八王子八幡町
同 横山町
同 八日町
同 馬乗町
同 寺町
同 子安町
同 元子安町
同 新町
同 本町
同 大横町
同 元横山町
同 新横山町
同 八木町
同 千人町
同 本郷町
同 小門町
同 上野町
同 久嶋町
同 元本郷町
由井村 片倉村 打越村 西長沼村 北野村 宇津貫村 小比企村
横山村 散田村 下椚田村 館村 寺田村 大船村 下長房村
浅川村 上長房村 上椚田村
元八王子村 大楽寺村 上一分方村 横川村 川村 元八王子村 二分方村 下一分方村
恩方村 下恩方村 上恩方村 西寺方村 小津村
川口村 下川口村 上川口村 山入村 犬目村 楢原村
加住村 留所村 北大沢村 本丹木村 中丹木村 八日市村 横山村 梅坪村 瀧山村 左入村 谷野村 宮下村 戸吹村 高月村
小宮村 大和田村 北大谷村 宇津木村 石川村 粟須村 北平村 西中野村 日野宿飛地
由木村 下柚木村 南大沢村 松木村 上柚木村 中山村 越野村 堀之内村 別所村 東中野村 大塚村 鑓水村
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  八王子織物染色講習所(八王子工業高校の前身)
花子さん 産業なんかはどうだったの。
メルト 宇宙人:そうだね。八王子だからやっぱり織物だよね。で、明治18年、東京の上野で行われた五品共進会(製品の博覧会のようなもの)で八王子織物は品質が悪くてすごく評判が悪かったんだ。みんな近代化が必要だと感じるようになった。翌19年に八王子織物組合を設立して、国から染色の専門家の派遣を受けることができるようになったんだ。そして、明治20年、八王子織物染色講習所が開校したんだ。これは、今の八王子工業高校のことだよ。
  東京府立織染学校
▲東京府立織染学校
太郎君 学校にはいろいろな歴史があるんだね。
メルト そうだね。こうして、八王子織物は最新(洋式)の染色技術なんかを導入して、製品を改良していった。これが織物の発展につながった。
花子さん で、どうなったの。
メルト 今で言うリベンジだね。明治23年の内国勧業博覧会という発表会で、八王子織物は様々な賞を受賞したんだ。これにはみんな喜んだよ。五品共進会での不評を見事にばんかいしたんだ。
<そのころの日本は>
帝国憲法発布
明治22年2月11日。この年のこの日に帝国憲法が発布されたんだ。この日はみんなでお祝いしたよ日本中が喜んだんだ。でも、憲法が何か良く分からない人が多かったらしい。神さまと勘違いした人もいたんだって。そして、これを記念して2月11日は建国記念日になった。また、第1回帝国議会も、明治23年11月25日に召集(開催の通知)され、開催されたよ。しかし、予算案をめぐって議会は紛糾。また、海軍大臣の演説がもとで、2日目で初めての解散となってしまったんだ。
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  八王子が東京府へ
太郎君 八王子はなんで東京になったの?
メルト いい質問だね。神奈川県だった八王子を含む三多摩を東京府へ編入することが計画されたのは水道事業のためだったそうだよ。当時の東京市(23区のこと)に住む天皇や大勢の東京に住む人にとって水道は大切なもの。水源や水路を管理することは大切なことだったんだ。
その当時コレラが流行り、水源や水路の上流に住む人たちが汚物を流したといううわさが広まったんだ。しかし、上流の方は神奈川県。東京の人は管理できないため、水を飲むのがとても怖かったんだって。そんなことから、八王子を含む三多摩を東京にしたかったんだ。
当時、いろいろな反対があったが、結局、明治26年4月1日から八王子は東京府になった。
<三多摩ってなに>
明治の廃藩置県後、11年に「郡区町村編成法」が公布され、多摩郡は東・西・南・北に分かれた。そして西多摩郡・北多摩郡・南多摩郡の三多摩は神奈川県になったんだ。東多摩だけは東京府なんだ。八王子は南多摩郡に属していた。南多摩郡役所も八王子にあったんだ。しかし、郡役所を置かなくなり、市になったまちは郡を使わなくてよくなった。この三多摩にあった町や村で市になったものは郡から外れたんだ。今でも、日の出町や瑞穂町は市になっていないので西多摩郡てついているんだ。
<そのころの日本は>
日清戦争
明治27年8月、日清戦争が始まった。清は今の中国だよ。戦争の原因は朝鮮半島をどちらが占領するかということだったんだ。戦争の始めころは、相手が清国という中国の大国で、日本は負けてしまうのではという不安と、急に家族が召集を受けたことなどで、兵士を見送る姿はとても悲しそうだった。八王子からも、兵士として、また、物資などを輸送する軍夫などもいたよ。
しかし、実際に戦ってみると清国は弱く、勝利の様子を新聞の号外が伝えると、どっとにぎわった。明治28年に戦争も終わり、遼東半島を占領したんだけど、ロシアやフランス、ドイツから返還するように言われたんだ。日本はルール違反だと国際社会に言われたんだ。そして、これらの大国には逆らうことができず返還した。勝った、勝ったとは喜んでみたものの、結局悔しい思いをしたんだ。
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  八王子の大火事
花子さん 八王子には大きな火事があったのよね。
メルト 明治26年の新万火事と明治30年の八王子大火と二つの火災に見舞われたんだ。新万火事では、約750戸が焼けてしまったんだ。
そして、とてつもない火事が明治30年の大火事。4月22日午後3時ころから火災が発生し、強風が吹くなど条件も悪かった。3、341戸が焼失、42人が焼死してしまたんだ。大横町から東の地域を焼け野原と化してしまった。
太郎君 火事はやだよ。
メルト 火事はみんな奪ってゆくからね。でも困ってばかりではいられなかった。この状態から復興しなければいけなかった。八王子町も借金をして、復興のためにしっかりした道路などの計画を作った。町の復活は、役所だけじゃだめなんだ、町民もみんなで協力、苦労をして、八王子は復興したんだ。
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  八王子織物同業組合
じゃあまたちょっとここで織物のことを見てみよう。この写真は明治32年に八王子織物同業組合が設立された時のものなんだ。
 

八王子織物同業組の設立時の写真

太郎君 織物の組合?ちょっとむずかしいな。
花子さん 織物屋さんがみんなでグループを作ったってことよ。
太郎君 何のために?
八王子で組合を設立するきっかけは、京都の呉服商組合から八王子織物の仲買商に申し入れがあったからなんだ。粗悪品はすべて返却するといわれてしまった。八王子織物の危機として、一生懸命改革するために組合ができたんだ。このころは、日清戦争の賠償金を清国からもらい、戦争の後始末や軍事拡張費などに使われ、日本の景気も上向きだったんだ。そして、工場などもどんどん建設され、工業化、近代化がすすめられていた。でも八王子織物は、工場生産ではなく、熟練工が旧式の織機で作っていた。粗悪品や不良品は、どんどん排他され、売れなくなってきたんだ。国も重要輸出品同業組合法を公布し、各地で同業組合が作られてきた。
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  明治34年
明治34年。今年は西暦1901年、20世紀が始まったよ。
太郎君 へェー。今から100年前か
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  萩原橋と萩原彦七
花子さん この写真は何?
 

萩原製糸工場

メルト これは、萩原製糸工場だよ。この工場の経営者・萩原彦七さんは、二頭立ての馬車に乗り、夫妻で横浜に行き、直接外人と取引したんだ。そんな姿に民衆はあこがれたんだって。また、元本郷町一丁目秋川街道が浅川を渡る橋は「萩原橋」って言うんだけど。これは、この萩原彦七さんにちなんだ名前なんだ。当時、みんなで橋を作ろうとしたお金が持ち逃げされ、そのお金を立て替えたのがこの萩原彦七だったからなんだ。
花子さん へぇ〜、経営の才能もあったんでしょう。それに、とてもいい人だったのね。
<そのころの日本は>
明治37年日露戦争が始まった。日本海海戦など数々の当時のロシアを相手に歴史的な勝利を収めたものの、日本もお金を使いすぎたのとたくさんの戦死者をだすなど、最後は戦争を続けることが難しかった。そして、アメリカの仲裁でロシアと話し合い(ポーツマス講和会議というんだ)戦争を終わりにしたんだ。でも、もっと戦争を続けたいと思う人も多かったんだ。みんな気持ちの上では、戦争に勝ったと思っていたからね。
八王子はもちろん、日本のいろいろなところで、勝利を祝う行事が行われたよ。

日露戦争の凱旋門
▲日露戦争の凱旋門

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  甲武鉄道の国有化と汽車博覧会
太郎君 そういえば汽車はどうなったのかな?
花子さん たしかこのころ八王子〜甲府間がつながったはずよね(明治36年)。
太郎君 へぇーすごいね。こんな昔から長い距離を走っていたんだね。
メルト そうだね、これで東京から甲府まで汽車でいけるようになった。それから、明治39年になると政府が、こうした数々の鉄道会社を買い上げはじめたんだ。同22年に開通した甲武鉄道も国有化されたよ。
太郎君 なんで政府は鉄道会社を買ったの?
メルト 治安といって国の安全のためや(国を倒そうとする人もまだ大勢いたんだ)、国防といって外国の敵から日本を守るために鉄道が必要だったんだ(武器や物を運ぶのに)。
太郎君 へぇー。
メルト この甲武鉄道が国有化されたことや戦争のお祝いなどをあわせて、八王子駅で汽車博覧会が行われたんだ。新型の汽車を見たり、触ったりできるように展示したんだ。それまでの汽車は、一つひとつの車両が離れていて、連結されていてもちがう車両へ行くことができなかったんだ。でも、このとき展示された汽車はちゃんとつながっていて、全部の車両を歩くことができたんだ。この当時は画期的だったんだよ。
 

汽車博覧会
▲汽車博覧会の様子

太郎君 そういえば横浜線はどうなったの?
花子さん それは、私に任せて、えーと本には…と、あった、『明治41年、横浜線が開通。八王子駅と東神奈川駅を結んだ。横浜鉄道という会社が横浜線を開通させる』。
メルト さすが花子さん。
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  東京府立第四高等女学校の開校と横川うめ子
メルト 八王子にはたくさんの偉人がいたんだ。そのうちの一人に上げられる人を紹介するね。
ちょうどこのころ活躍した人なんだ。
太郎君 だれだれ!
メルト それは、横川楳子(うめこ)という人なんだ。明治25年。「女に教育はいらない」「女は針仕事ができればよい」などといった風習のなか、「女だって人間」「婦人も高等教育を受ける権利がある」と主張し、八王子に私立の女学校を設立した人なんだ。このときは本立寺というお寺の空き地に作ったんだ。
 

八王子女学校
▲八王子女学校

花子さん お寺って歴史によく出てくるわ。
メルト そうなんだ、寺子屋などがあったし、みんなお寺とよくかかわっていたんだ。
太郎君 ふ〜ん。
メルト そして、この功績がたたえられ、東京府から表彰されると、当時の八王子町も経営の苦しいこの女学校を助けようとしたんだ。土地をあげて、新しい学校を作り、いっそ府立の大きな学校にしようと東京府に提案したんだ。
その後、明治41年に東京府立第四高等女学校が開校された。この学校は、今の南多摩高校の前身なんだ。このころは、日本が世界の一等国として国際社会に進出するには教育が大切。教育振興、義務教育の延長が取り上げられ、小学4年制から6年制に引き上げられたんだよ。
 

東京府立第四高等女学校
▲東京府立第四高等女学校

太郎君 八王子のどこの人なの?
メルト この横川楳子(うめこ)という人は、横川の千人同心の家に生まれた。お茶の水の東京女子師範(現在のお茶の水女子大)で勉強したんだ。
花子さん 私も先生になろうかしら。
太郎君 がんばってね。
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  初めての電話
メルト 明治42年、電話が引けたんだ。みんなまち望んでいたよ。今の電話と違って、直通ではなく、いったん電話交換手の人につなげ、その人に相手の電話番号を教えてつないでもらうんだ。
花子さん それ何かで見たことがあるわ。電話交換手て女の人ばかりだったのよね。
そうそう。この当時はみんな着物きてるね。八王子停車場前(八王子駅のこと)にできた電話ボックスは、とても珍しがられたよ。
 

八王子停車場
▲八王子停車場

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