| 多摩御陵といちょう並木 |
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いよいよ昭和ね。私が生まれるちょっと前なのよね。 |
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ぼくも平成生まれだ。 |
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大正天皇崩御(亡くなってしまうこと)によって、昭和に入った。
みんなは、天皇陛下がなくなると、平成や昭和といった元号が変わるのをしっているよね。この昭和元年はわずか1週間で終わってしまったんだ。 |
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短いね。 |
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そして、次の年の昭和2年、大正天皇の陵墓地(お墓)を横山村(長房)に作ると発表されるたんだ。名前は多摩陵(たまのみささぎ)、これにはみんなびっくりしたよ。
ちなみに、甲州街道の追分から高尾駅までのいちょう並木は、この多摩陵を記念して植えられたものなんだ。みんな知ってたかな? |
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そうだったのね。知らなかったわ。 |
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| 市内ではじめての水道 |
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みんなの家には水道がきているよね。 |
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いつでも蛇口をひねれば水が飲めるよ。 |
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今度は水道の話ね。 |
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さすが花子さん。八王子の水道は昭和3年に生まれたんだ。市役所の近くの元本郷浄水場で水をとって、散田の配水池から水をおくっていたんだ。これは、明治の終わりころから計画を立て、専門家にも協力をお願いしたんだ。高尾山の方や川口の方など山のほうを調べて、水源をどこにしようか一生懸命調べた。そして、この昭和3年にやっと給水をはじめられたんだよ。 |
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どのくらいの家に水をおくれたのかな?
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今は、恩方などの一部を除いて全ての家々に行き渡っているよね。でもこのときは、給水人口はわずか2千人。普及率は4%だったんだ。 |
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| 八王子にもチンチン電車 |
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わぁー、八王子にもチンチン電車があったんだ。 |
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▲追分を走る市電 |
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太郎はやっぱり電車が好きね。 |
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うん、大好きだよ。 |
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武蔵中央電気軌道株式会社という会社がはじめた市内電車だよ。最初は、浅川駅(今の高尾駅)から追分まで、その後、高尾橋から浅川駅、追分から東八王子駅、横山町から八王子駅間が延長されて8.4キロを走ったんだって。この電車は昭和14年まで活躍したんだ。 |
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いいなー、また走ってくれないかな。 |
<そのころの日本は>
恐慌
昭和の初期には2つの恐慌があったんだ。恐慌というのは簡単にいうと、すごい不況のことなんだ。物がぜんぜん売れなくなってしまい、会社や工場はつぶれてしまう。すると、働けなくなる人が増えて、生活ができなくなってしまうんだ。まず、金融恐慌がおこって、全国の銀行がいっせいに休業した。その後、アメリカから恐慌が始まり、世界が恐慌になっていったんだ。恐慌が始まると八王子織物も組織的に休業して不況を乗り切った。
国はこうした恐慌での人々のイライラや非難をさけるため、外国に植民地をつくり、物を売ったり、資源をうばったりしたんだ。そして、恐慌の危機を乗り切るために、昭和6年満州事変で満州国をつくる。これは、世界からすごく非難されたんだけれど、日本の軍が勢いをつけ、日本を戦争する体制に変えていってしまったんだ。 |
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| 太平洋戦争 |
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ぼく戦争やだな。 |
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私も。 |
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日本は、満州を足がかりに中国をどんどん占領していった。そして、ドイツ・イタリアと同盟を結び、昭和16年、12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入していった。 |
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日本はアメリカに負けたんでしょ。 |
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そうだね、始めは勢いの良かったこの戦争も昭和18年ころからは状況が悪くなった。何しろ敵はアメリカ、兵力も武器も日本軍とは比べ物にはならなかったものね。 |
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| 八王子空襲 |
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八王子にはなにか被害はあったの? |
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戦争は八王子にもたくさんの傷跡を残していったよ。一番大きい被害は八王子空襲だね。太平洋戦争も終わりに近づくと、日本の空にまでアメリカ軍の飛行機が侵入してくるようになったんだ。昭和20年8月2日未明、アメリカ軍機169機によって約2時間にわたる空襲を受けたんだ。 |
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2時間も爆弾を落とされたの? |
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それじゃ逃げられないよ。 |
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B29という大型爆撃機が、約67万個の焼夷弾(しょういだん)を落としたんだ。これは市民一人あたり約10個分もあるんだよ。そして、約450名の方がなくなり、家も約1万4千戸が焼けてしまったんだ。市役所や学校など公共の建物はほとんど焼けてしまったんだ。多くの人が燃え上がるまちを背中に逃げ惑ったよ。恩方や加住など、周囲の山や丘陵からも八王子の中心市街地が真っ赤に燃え上がるのが見えた。とても怖かったって。 |
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そんなにたくさんの人が亡くなってしまったんだ…。 |
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八王子に落とされた焼夷弾の中で特に恐れられたのがM17集束焼夷弾(しゅうそくしょういだん)。これは、M50焼夷弾が110本束ねられていて、飛行機から投下された数秒後に帯が取れてばらまかれるものなんだ。親子焼夷弾と呼ばれていたんだ。 |
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▲緑町霊園にある戦災死没者の無縁仏の供養の墓 |
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| ランドセル地蔵 |
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ほかにも戦争の傷跡が残っているんだ。花子さん「ランドセル地蔵」を知っている? |
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もちろん、本で読んだわ。たしか、東京から疎開って言って、子どもたちだけ空襲などにあわないように八王子へ逃げてきていたのよね。その一人の男の子が飛行機の銃弾にあたって亡くなってしまったのよね。
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そうなんだ。男の子の名前は神尾明治(かみお あきじ)君、もう少しで10歳になるところだったんだ。駆けつけたお母さんは、どうしようもなく悲しくて涙に明け暮れてしまった。 |
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ぼくの年と近いんだ。こんな年でお父さん、お母さんと離れて暮らさなくちゃいけなかったの? |
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そうよ。みんなさびしくってしょうがなかったのよ。夜中に一人で泣いている子もたくさんいたんだって。
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お母さんは、近くにある相即寺(泉町)の地蔵堂に明治君そっくりのお地蔵さんを見つけた。そして、ランドセルをかけてあげた。 |
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このときのお母さんの気持ちって…。 |
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▲ランドセル地蔵 |
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今でも、この相即寺の地蔵堂は年3回だけ開かれる。このときしかランドセル地蔵は見ることができないんだよ。
まずは、6月23日、この地蔵堂はもともと戦に負けた八王子城の死者を供養するための地蔵だったんだ。だからこの日は八王子城が落城したといわれている日。次が明治君の命日にあたる7月8日、そして8月8日の3日なんだ。 |
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私も今度行ってみるわ。 |
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| いのはなトンネル列車銃撃事件 |
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あと裏高尾でも列車が銃撃されたのを知っているわ。 |
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それは、いのはなトンネル列車銃撃事件のことだね。これは、終戦間近の昭和20年(1945)8月5日、午後12時20分ころのことなんだ。満員の新宿発長野行419列車がいのはなトンネル東側入口に差しかかった時、米軍戦闘機(P51)2機、または3機の銃撃を受け52名以上の方々が死没し、133名の方々が重軽傷を負ったんだ。この空襲は日本最大の列車銃撃と言われているんだって。
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えっ、列車が襲われちゃったの? |
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そうなのよ、普通の人たちが犠牲になったのよね。 |
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そうなんだ。そして、このとき、裏高尾の人たちが被害者を救助したり、なくなった方を手あつく葬ったりするなど被害者の家族の方にすごく感謝されたんだ。トンネルの近くに「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」の方たちが建てた慰霊碑があるんだ。 |
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▲慰霊碑(上)といのはなトンネル |
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| 焼け跡からの復興とヤミ市 |
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戦争はいつ終わったの? |
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八王子空襲から約2週間後、いのはなトンネルの銃撃から9日後の8月15日に終戦を迎えたのよ。 |
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八王子の町は焼け跡だけで何もなくなってしまったんだよね。 |
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そうだったわよね。ひどかったわ。 |
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戦争が終わった後の9月に復興委員会を開催して、道路や住宅など、まちを新しく作り直すための話し合いをしたんだ。そして、翌年の21年には戦災都市復興計画というのが決まり、八王子駅周辺から新しいまちづくりを始めたんだ。 |
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すぐ出来たの? |
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いやいや。建物の多くはバラックといって、ほったて小屋みたいなものだったよ。 |
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あと、ヤミ市っていうのがあったんでしょう? |
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なにそれ? |
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戦争でたくさんのお金と食料、ものを使ってしまったから日本には何も残っていなかったのよ。それで、みんなで分け合うように配給制といって公平に配られていたのよ。 |
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そうだね。でも、これだけではまったく足りない。だから、ヤミ市という露店がでて、食べ物や衣料品なんかを売っていたんだ。 |
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お祭りのお店みたいだね。 |
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あと、6(小学校)・3(中学校)・3(高校)・4(大学)制になったのもこのころよね。 |
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そうだね、昭和22年教育基本法、学校教育法という法律ができたんだ。今の学校制度の始まりだね。 |
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そういえばまちづくりはどうなったの? |
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昭和24年には八王子駅と甲州街道を基本に、町並みを碁盤の目のようにきれいにする土地区画整理で整え、東と西に伸びる放射線道路などを作ったんだ。地図で見るとよく分かるよ。道路でまちが、きれいに仕切られているんだよね。 |
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| 八王子織物-ガチャ万- |
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そういえば織物はどうなったのかしら? |
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うん。やっぱり、八王子織物は八王子空襲で壊滅的な打撃を受けたんだ。織物の機械も昭和16年の時と比べると約20%程度、1,932台しか残っていなかったんだ。 |
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80%は壊れてしまったのね。 |
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でも八王子は織物のまちで、すごく栄えたっておじいちゃんが言ってたけど…。 |
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そうなんだ。昭和22年、復興金融公庫といって戦争の被害から立ち直るためのお金を1億3千万円借りたんだ。そして、見事に復活した。
終戦直後はみんなぼろを着なければいけなかった。ものすごく衣料品が不足していた。だから、織物は、織るだけで飛ぶように売れたんだ。織れば売れる、ガチャ万の時代がまたきたんだ。そして24年には工場数573、力織機6,238台とすごい数にふくらんだよ。また、織物とともに、ネクタイ・マフラー・ネッカチーフ・傘地などの雑貨物が良く作られるようになったんだ。特に、ネクタイの生産は当時、全国の6割も占めていた。さらに、朝鮮戦争というのがおきて、生産は大きく回復していたんだ。 |
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完全復活したのね。 |
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すごいんだね。 |
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| 合併で育った八王子 |
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八王子は、町や村と合併して大きくなったのはしっているかな? |
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なんでくっつくの? |
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だって市役所の数とかを減らせるからでしょう。 |
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昔だけではなくて、今でも動きはあるんだよ。そして、このときもやはり、同じようなことがあったんだ。国が法律を作って、どんどん合併してくださいって、うながしたんだ。そして、東京都は、東京都町村合併計画案をつくった。この計画によると八王子は、周辺にあった浅川町、横山村、元八王子村、恩方村、川口村、加住村、日野町、七尾村、由井村の2町7村と合併するというものだったんだ。
八王子市も合併を真剣に考え、これらの町や村に合併しましょうという、申し入れをしたんだ。 |
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今の日野市や町田市の町も計画があったのね。 |
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でも、昭和30年に横山村、元八王子村、恩方村、川口村、加住村、由井村の6つの村と合併したんだ。 |
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浅川町なんかはどうしたの? |
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その後は、34年に浅川町と、39年には由木村と合併したんだ。この合併で、人口・面積ともに多摩地区最大の市になったよ。ちなみに、このときの人口は193,346人、面積は188.19平方キロメートル。
そして、八王子はどんどん発展していったんだ。北八王子や東浅川に工業団地をつくり、進んだ技術を持った工場などがたくさんできた。織物だけではなく工業という新たな一面も加わっていったんだ。
また、昭和38年には、工学院大学が市内初の大学として八王子にできた。今では、短大や工専も含めると21の大学などがあるんだ。京都市と同じように学園都市とも言われているよ。 |
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| 八王子でもオリンピック |
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この写真はなに?みんな自転車にのっているけど。
花子さんは分かるかな? |
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分かったわ。オリンピックでしょう。 |
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そのとおり。今年は9月にオーストラリアのシドニーでオリンピックがあるよね。日本でも、昭和39年に東京オリンピックがあったんだ。みんながうまれるずっと前だけどね。そして、八王子でも競技が行われたんだよ。今の陵南公園が会場だったんだ。写真のように自転車競技が行われたんだ。 |
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それじゃ、今回の歴史への旅は、ここまでにしよう。 |
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もっと行きたいな。 |
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今度会うときは、もっと調べておくわ。 |
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それは、楽しみだな!じゃあまた。 |

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いろんな説明ありがとうありがとう。バイ、バ〜イ |
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