江戸時代と
千人同心
<このころの出来事:クリックするとその内容の所に飛ぶよ>
江戸時代
秀吉と家康の対立から生まれた千人同心
千人同心の前身
千人同心の配置
八王子の新しいまちづくりは軍用都市として
定期市と八王子織物
農村の変化と織物
千人同心の日光勤番と蝦夷地開発
絹の道と鑓水商人

旧石器・縄文時代・
弥生時代・古墳時代


奈良時代・平安時代
鎌倉時代

戦国時代と
八王子城

江戸時代と千人同心

明治時代

大正時代

昭和時代

八王子歴史年表
  江戸時代
<そのころの日本では>江戸時代
1603年に徳川家康が江戸に幕府を開き、1867年の大政奉還までの約260年間。幕府が全国の大名を支配し、大名はそれぞれの国を治めていた。また、そのほとんどを鎖国といって、中国やオランダ以外の国とは国交を持たなかった。この時代まで武士による政治が行われるが、経済が発展していくにつれて、商人などの町人が力をつけていった時代でもある
  秀吉と家康の対立から生まれた千人同心
メルト 北条氏が1590年に滅んだ後に関東を支配したのは徳川家康。家康は、この年に江戸にやって来て、江戸の町づくりを始めるんだけど、江戸から離れた八王子は重要な役割を持っていたんだ。それは、秀吉は全国制覇をなし遂げたんだけど家康は強力なライバルだった。そのため、武田氏がいなくなった甲斐(山梨)の国に秀吉の部下の大名がいて、つねに家康のいる江戸を監視させたんだ。
花子さん 秀吉と家康って仲が悪かったの?
メルト というより織田信長がいなくなった後、お互いに利用しあって全国を統一したんだ。キツネとタヌキの化かしあいなんていうけど、先に天下をとったのが秀吉で、そのすきを家康がねらっていたんだよ。
話しを八王子に戻すけど、家康としては、いつ西の甲斐の方から敵が攻めてこないとも限らない、のど元に刀をつきつけられていたんだね。だから、江戸の守りを固めようと、西の八王子に守備部隊を置いた。それが八王子千人同心の始まりなんだ。最初は約250人、後に500人、後に1000人に増やされ、千人同心と呼ばれるようになったんだ。
▲もどる


  千人同心の前身
メルト 今、守備部隊といったけど、どういう人が千人同心になったかわかるかな?
花子さん 戦いのための人だから武士よね。
メルト その通りなんだけど、面白いことがあるんだ。実は、千人同心の多くは、戦国時代最強といわれた甲斐武田氏の元の家来が多い。武田氏が滅んだあと、仕える大名がいなくなった武士たちを家康が家来として迎えたんだ。
花子さん たしか、家康って武田信玄と戦ってコテンコテンに負けちゃったって本で読んだけど、家康って、心が広いのかな?
メルト そう。家康も、信玄の元家来たちが強いのは身をもって体験している。だから、その強い人たちを味方に、いや部下にすれば、必ず役に立つとふんだんだ。
太郎君 武士って、そんなにいろいろな人に仕えられるの?「忠臣蔵」なんて、殿さまが死んでも、家来が殿さまの名誉のために敵討ちをしたよね。
メルト それは、江戸時代に入ってからのこと。「忠臣、二君に仕えず」なんていわれたけど、家康の時代ころまでは、たとえば仕える主の大名が滅んでも、優秀な家来はほかの大名に仕えることが多かったんだ。
花子さん 太郎には分からないと思うけど、今風にいえば「終身雇用」じゃないってことね、エヘン。
メルト 花子さんは難しい言葉を知っているね。ちなみに八王子城落城のあと、八王子のまちづくりが始まって、元八王子にあった宿場などが、今の甲州街道の横山〜八日町あたりに移転する。大久保長安による新しいまちづくりでは、生き残った北条氏の家来も町役人として活躍するんだ。長田・成内・新野・山上家など今も残っている旧家もあるんだよ。
▲もどる


  千人同心の配置
メルト 千人同心は土地を与えられて、ふだんは農民と同じように田んぼや畑を耕して暮していた。江戸時代は士農工商と身分制度が確立した時代だけど、千人同心は半分武士、半分農民といったぐあいだったんだ。だけど、何かあれば武器を持ってかけつける。1615年の大阪夏の陣、徳川と豊臣の最後の戦いなんだけど、千人同心も家康軍として戦っているんだ。
花子さん 話しはさかのぼるけど鎌倉時代の武士もそうだったよね。何かあればかけつける。
メルト そう。だから千人同心も武士として武芸の練習は欠かさなかった。今は残っていないけど、千人町二丁目の宗格院というお寺のあたりには、馬場といって乗馬の訓練場があったし、槍奉行の配下にあったこともあって、槍の訓練をしている絵なんかも残っているよ。
花子さん う〜ん、千人同心と千人町、千人同心はみんな千人町にいたの?
ちょっと違うんだけど、まず、その組織のことから話すと、一番偉いのが千人頭といって10人いたんだ。この10人の千人頭がそれぞれ、100人の同心をたばねていた。そしてこの100人の同心を10人ずつ10組に分けて、10人の組頭をおいたんだよ。だから、いろいろな命令は千人頭→組頭→同心というルートで伝わったんだ。
今の追分交差点、甲州街道と陣馬街道の別れ道のところに「八王子千人同心屋敷跡」の碑があるけど、あの周辺に拝領屋敷といって、幕府から与えられた屋敷におもに千人頭や組頭が住んでいて、中心となっていた。ここは西からの守りを固める重要ポイントだったんだね。
というわけで、千人全部がこのあたりにいたんじゃない。東は今の三鷹、西は神奈川県の藤野、北は埼玉県の飯能、南は神奈川県の相模原とわりに広い範囲に散らばっていたんだ。
  馬場横丁

槍の訓練
▲馬場横丁(上)・槍の訓練(写真下。桑都日記より)
▲もどる


  八王子の新しいまちづくりは軍用都市として
メルト 次に八王子のまちづくりについて紹介するけど、その指揮をしたのが大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす)という人物。もともとは武田氏の家来で、とても優秀な人材だった。長安は、佐渡の金山の長官になって、その金の産出量を倍増させたりしていたから、その腕を見こまれたんだ。家康にも信頼されて、八王子のまちづくりを進めるんだよ。
  産千代稲荷神社
▲大久保石見守長安の陣屋があったとされる産千代稲荷神社

長安が八王子のまちづくりで何をしたかっていうと、まず、新しい甲州街道を造ったんだ。そして、宿場を造り、浅川は当時よくはんらんしたから、石見土手といわれる堤防も造るんだ。

太郎君 新しいって、古い甲州街道もあるの?
メルト そう、八王子の中心市街地には、東西に向かう2つの道があったんだ。1つは八王子城に行くための道で、もう1つが、この古い甲州街道。その間にできたのが、今の甲州街道で、大久保長安が八王子城下にあった横山・八日市・八幡の三宿をここに移したんだよ。
そして、代官の陣屋を置いて、年貢の取り立てや警察の仕事など地方の行政を行ったんだ。
この新しい甲州街道は最初、軍用道路として造られたものだからなんだ。今はわりとまっすぐだけど、東は新町、西は千人町のあたりでは、当時は道を折れ曲がらしたりして、敵がまっすぐ進めないようにしていたし、大きなお寺を近くに移したりしてるんだ。

花子さん お寺は何に使ったの?
メルト お寺は敷地が広くて、大きい本堂にはたくさんの武士が待機できるからなんだ。ほかにも八王子城を廃城といって、使えないようにしたりもしてるんだ。
花子さん 敵にとられたりすると、大変ってこと?
メルト そうだね。このように軍用って色の強かった八王子なんだけど、1650年ごろになって世の中が平和になってくると一般の人たちが、それまで通れなかった千人町あたりの道も通れるようになったんだ。
▲もどる


  定期市と八王子織物
メルト 今も甲州街道にはいろんなお店が並んでいるけど、江戸時代もそうだったんだ。東から横山宿、八日市、八幡の3つの宿場を置いた。宿場では市が開かれ、お店が並ぶんだけど、お店の形が変わっている。甲州街道に面して間口が約7メートルなのに奥行きは約65メートルと、どの店もかなりの縦長なんだよ。このころのお店にかける税金のせいなんだけど、分かるかな?
花子さん このころじゃ消費税なんか無いし、間口が狭い、狭いけど何かメリットがあったんだね。
メルト 惜しいね。その間口によって税金の額が決められていたから、こうなったんだ。今も八日町のあたりで、細長い形のお店がまだ残っているから今度みてごらん。
花子さん さっき、市が開かれたっていったけど、六斎市っていうんだよね。4と8のつく日、月6回行われたんでしょう。
メルト さすが花子さん。市が行えた2つの宿場のうち、横山宿が4のつく日、八日市が8の日だったんだ。
太郎君 どんな品物があったの?
メルト 絹だけでなく綿とか麻の織物は着物だし、魚や塩などの食品、薪は燃料、という具合に当時の日用品なんだ。
特に織物の中で、「縞物(しまもの)」といって絹などに縦とか横にしま模様の入った織物は人気があり、だんだん取引量が増えていくんだ。そして、市の中でこれだけ別に、つまり時間帯をずらして行うようになっていったんだ。それは江戸で多くの人が着るようになったからだね。この時代の市の様子をのぞいてみよう。
   「桑都日記」縞市の絵図
▲「桑都日記」縞市の絵図
太郎君 へぇー、すごい人手だね!
メルト 江戸時代の中ごろになると、このような縞市もできたんだけど、その背景には江戸の大きな呉服商「越後屋」とか「松坂屋」とかから、八王子の織物商人が注文を受けて、大量に買いつけていたこともあるんだ。
▲もどる


  農村の変化と織物
花子さん でも、そんなに取り引きがあるってことは、それだけ品物が集まらなくちゃならないよね。八王子の宿場だけで全部織られていたの?
メルト いい質問だね。八王子は宿場だったんだけど、甲州街道沿いに家が並んでいても、すぐ裏は畑とかが多かったんだよ。
太郎君 ふーん、今じゃビルとかマンションが多くて、想像できないけど…。
メルト だから、八王子宿のまわりの村々も、ほとんどが農家だったんだ。農作物とか山仕事で薪をとったりして、八王子の市に持ってきて、お金に換えていたんだ。それともう1つ大事なのが、さっき花子さんが言った織物。これを市に持ってきて商人に売っていたんだよ。農作業のあいまに養蚕をして、織物を作っていたのが、だんだんその取り引きが多くなってくると、まわりの農村にも変化がでてくるんだ。
花子さん どういう変化なの?
メルト 農村の中でも、お金による流通がさかんになってくると、豊かな商人や農家から、生活に困ってお金を借りる農村も出てくる。そして、そのお金が返せないと、土地を取られてしまったりするんだ。そうなると、農村の中で自分の土地がどんどん増える人と、土地をなくしてしまう人の2つに分かれてくるんだ。織物の取り引き量が増えてくると、各農家でバラバラに作っていたんじゃ間に合わないし、品質にも差が出てくるよね。そこで、広い土地を手に入れた農家なんかが、土地をなくして困っている人や小作人に原料や道具を貸して織物を作らせ、製品として自分のところに納めさせて、その品質をチェックする問屋制屋内工業が発達するんだ。
花子さん やっぱり、土地とか物を持っている人が強いのね。いつの時代も変わらないけど…。
▲もどる


  千人同心の日光勤番と蝦夷地開発
メルト 花子さんは今年、修学旅行で日光に行くのかな?
花子さん 秋に行くんだけど、たしか日光って八王子と姉妹都市だけど、そのことかな?
メルト じゃあ、どうして姉妹都市になったか、これから説明するよ。まず、千人同心は最初、江戸を守る守備部隊だったってことは前にも話したけど、江戸時代になって50年もたち、世の中に争いがなくなると、守備部隊という意味はうすれてくる。そこで、日光、つまり徳川家康などがまつられている東照宮を火事などから守るために警備を命じられるようになったんだ。
花子さん 警備は警備でもこっちも大変そうよね。火事なんか起きたら、全員…。
メルト 1652年から毎回100人ずつが八王子を出発して4日間かけて日光まで歩いて行き警備にあたっていたんだ。期間は50日間で後に半年間に変わっているんだよ。幕末になって官軍、のちの政府軍が日光を攻めた時、千人同心が抵抗していれば日光は焼かれてしまったはずだけど、責任者・石坂弥次右衛門は降伏して、平和的に日光を明け渡したんだ。
千人同心にとって、家康は「大神君(だいしんくん)」ともいわれていた。東照宮にまつられた家康は神様だったんだね。八王子に帰ってきた石坂は周りから非難されて、切腹してしまうんだ。
江戸時代、日光は何度も火事になったけど、そんな時、八王子千人同心が必死に消火活動をしていたんだ。その後、千人同心が日光を守ったことを記念して昭和49年に姉妹都市になったんだよ。花子さん、東照宮には、千人同心が日光を守ったことをたたえる碑があるから、ぜひ見てくるといいよ。
  石坂弥次右衛門
▲写真左から2番目が石坂弥次右衛門
花子さん ぜひ、見てくるわ。それにしても周りの評価って厳しいよね。日光が灰にならなくてよかったのにね。
姉妹都市っていえば、苫小牧もそうよね。これも何か理由があるんでしょう?
メルト そのとおりなんだ。江戸時代、幕府は鎖国といって、中国とオランダ以外の国とは国交を持たなかったんだ。それが幕末になると、ロシアが蝦夷地、今の北海道のそばまで南下してきて、日本に貿易なんかを求めるようになった。幕府は拒否したんだけど、蝦夷地を警備した方がいい、という意見も多かった。
こうした時代の中で千人頭・原半左衛門は千人同心の子弟を連れて蝦夷地にわたり、警備と開拓を行いたいと幕府に申し出て、1800年に初めて蝦夷地に向かった。千人同心の次男と三男などの子弟が勇払(ゆうふつ)、今の苫小牧市(とまこまいし)や白糠町(しらぬかまち)などで開拓と警備にあたるんだけど、食糧の不足や病気などのため、多くの犠牲者をだしてしまうんだ。今でこそ、広大なジャガイモ畑とか麦畑、牧場のイメージが強いけど、開拓が成功していくのはもっと後のことなんだ。
この蝦夷地移住はほとんど失敗に終わったけど、最初に北海道の大地を、開拓しようとしたことを記念して苫小牧市と昭和48年に姉妹都市となったんだよ。
▲もどる


  絹の道と鑓水商人
メルト 前に織物の話をしたけど、その原料は知っている?
太郎君 うーん、カイコのまゆだよね。夏休みの課題で飼ったことあるよ。
メルト そう、正解!織物の生産量が増えると一緒に、カイコからとる生糸の生産量も増えるんだね。江戸時代も終わりごろになると、これが劇的に変化することが起こるんだよ。
花子さん 何かしら?
メルト それはね、江戸時代は鎖国していて、中国とオランダとしか貿易をしていなかったんだ。それが、1859年にアメリカやヨーロッパの国々と貿易するため、北海道の箱館(今の函館)や後で横浜に変更されるけど神奈川、そして長崎の3か所で開港する。その貿易の中でたくさん売れたのが生糸。
なぜかって言うと、当時ヨーロッパではカイコの病気がはやっていて、しかもたくさん輸出していた中国が国内で戦乱が起き、生糸の輸出がほとんどなくなってしまったからなんだ。東日本の各地で生産された生糸は集められて、いくつかのルートを通って横浜に向かうんだけど、八王子に集まってから運ばれるルートも大事だったんだ。
花子さん 分かった!それが「絹の道」ね。遠足で行ったことがあるよ。その道を通って生糸が横浜まで運ばれたなんて、なんかロマンがあるよね。
メルト そんな時代に活躍したのが鑓水商人たちなんだ。もともと、国内で使われていた生糸が、どんどん外国に輸出されてしまうと、生糸の値段が上がって、鑓水商人たちはますます儲かって、ばく大な財産を築いていく。鑓水商人の中でも、八木下要右衛門という人は、「石垣大尽」と呼ばれていて、相模川から運んだ石で造った立派な石垣屋敷に住んでいたんだよ。屋敷の中には、ラセン条の階段やベランダのある洋館もあったんだ。ただ、この人は自分の財産を誇っただけでなく、飢餓の時に困っている人に米なんかを分け与えたりする篤志家でもあったんだよ。その後、この八木下家は没落してしまったけど、その屋敷跡は「絹の道資料館」になっているよ。当時の様子が分かる資料もあるから、今度行ってみてごらん。
太郎君 うん、お姉ちゃんと行ってくるね。
▲もどる


|前へ|  |トップへ|  |次へ|